永楽帝~大明天下の輝き~ 第41話 あらすじ/ネタバレ

燕王、ついに帝位へ

李景隆が朱棣(シュテイ)に帝位につくよう主張するが、朱棣(シュテイ)は謀反の罪を着せられたくないため、最初は承諾しなかった。朱棣(シュテイ)は黄子澄や斉泰などの奸臣を捕らえるよう命じ、密告して捕らえた者には褒賞を与え、匿った者は奸臣と同罪とした。馬和は朱棣(シュテイ)の指示に従い、12人の宦官と113人の錦衣衛を密かに選抜し、3日後に出発する準備を整えた。朱棣(シュテイ)は、朱允炆(シュインブン)が生きていても死んでいても、二度と会いたくないと語った。

朝廷軍は敗北し、降伏した官吏は23人、官職を捨てて逃亡したのは460人だった。朱棣(シュテイ)はすでにこのような結果になると予想しており、朱能に3日後に夏原吉を連れてくるよう命じた。朱棣(シュテイ)は夏原吉に元の領土図を見せ、北方の経営と改土帰流を計画していることを明かした。夏原吉は朝廷は戦費がかかりすぎて、これ以上戦争を起こす余裕がないと率直に答えた。朱棣(シュテイ)は彼の性格を理解しており、自分が帳簿を調べられることもわかっていたため、夏原吉を江南に派遣して水害対策を任せることにした。そして、夏原吉と三つの約束を交わした。諸産業が興隆し、民衆が安寧に暮らすまでは、大規模な軍事行動を起こさないこと。夏原吉は朱棣(シュテイ)に敬服し、彼のために尽くすことを決意した。そして、成し遂げたいことがあるなら、まず人心を掌握することが重要だと進言した。

翌日、朱棣(シュテイ)は方孝孺を宮殿に呼び寄せ、即位のための詔書を起草させた。しかし、方孝孺は屈せず、「燕王篡逆」と書き残して吐血した。朱棣(シュテイ)は彼を連れ去るよう命じた。詔書に書かれた文字を見た朱棣(シュテイ)は激怒し、翌日、斉泰とその家族を公開処刑すると命じた。1402年、洪武35年6月、燕軍は南京を陥落させた。建文帝朱允炆(シュインブン)の行方はわからなくなった。勝利者となった朱棣(シュテイ)は、奸臣を処罰するという名目で次々と大規模な弾圧を行った。斉泰、黄子澄、方孝孺、練子寧などの建文帝時代の臣下は朱棣(シュテイ)によって殺害され、殉難者は多く、惨烈な状況となった。この年は壬午の年であり、歴史上「壬午の殉難」と呼ばれている。

奸臣の末路と忠臣の死

奸臣の家族は教坊司に送られた。徐妙錦は驚きを隠せなかった。朱棣(シュテイ)は鉄鉉を捕らえたが、彼を責めることはなく、むしろ自分に協力してほしいと願った。しかし、鉄鉉はもはや以前の鉄鉉ではなかった。朱元璋(シュゲンショウ)から「鉄鼎石」という字を賜った後、彼は朱棣(シュテイ)とは全く異なる行動様式と態度をとるようになっていた。鉄鉉は興宗皇帝(朱標(シュヒョウ))に忠誠を誓っており、もし朱棣(シュテイ)が帝位につくのであれば、興宗皇帝の名号は残すべきではないと考えていた。忠臣は二君に仕えることはできない。鉄鉉は朱棣(シュテイ)と行動を共にすることを拒否した。朱棣(シュテイ)は当初、彼を海南島に流刑に処すつもりだったが、鉄鉉はすでに死を望んでいたため、朱棣(シュテイ)は彼の願いを叶え、斬首刑を命じた。駆けつけた道衍は、一歩遅かった。

朱棣(シュテイ)は第二批の逆臣を処罰する準備を進めていた。徐允恭の名前もリストに載っていたが、朱棣(シュテイ)は彼を殺すつもりはなく、自宅に幽閉して反省させることにした。徐妙雲(ジョミョウウン)はすでに弟を失っており、朱棣(シュテイ)が徐允恭にもこのような仕打ちをすることに絶望し、泣き崩れた。朱棣(シュテイ)は、増寿の息子を大切に扱うことを約束した。

朱棣(シュテイ)は自分の年号を永楽と定め、翌日、即位式を行う準備をした。翰林編修の楊子栄は、まず陵墓に参拝するよう進言した。朱棣(シュテイ)はそれを思い出し、人々に陵墓に向かわせた。参拝を終えた後、朱棣(シュテイ)は東陵に向かい、朱標(シュヒョウ)の位牌を抱きしめて号泣した。7月、朱棣(シュテイ)は南京で皇帝位に就き、大明永楽帝となった。これにより、華やかな「永楽の盛世」が始まった。

永楽帝の治世と新たな挑戦

12万人の軍民が10ヶ月かけて夏原吉の指揮のもと、水害を克服した。朱棣(シュテイ)は、水害に見舞われた地域に対して、永楽2年と3年の税を免除するよう命じた。朱棣(シュテイ)は即位から2年以上が経ち、改革を急ぎすぎたきらいはあったものの、海外進出、内閣の設置、文教の振興、諸藩の削減などを行い、大明はすでに勢いを増していた。京城では宝船の建造も進められていた。夏原吉が後に弟子である楊子栄にこのことについて尋ねると、楊子栄は朱棣(シュテイ)が大きなことを成し遂げようとしていると答えた。夏原吉は話題を変え、陛下が楊子栄に改名するよう命じたことを話題にした。夏原吉が京に戻ると、朱棣(シュテイ)が内閣と会議を行う予定だったため、会うことができなかった。栄国公が武英殿に来たのを見た夏原吉は、彼らが漠北の事について話し合うつもりだと推測した。

第41話の感想

第41話では、朱棣(シュテイ)がついに帝位に就き、永楽の時代が始まりました。このエピソードでは、朱棣(シュテイ)の冷酷さと野心、そして彼の臣下たちの忠誠と葛藤が描かれています。

朱棣(シュテイ)の冷酷さと野心

朱棣(シュテイ)は、自分の目的を達成するためには手段を選ばない冷酷な人物として描かれています。彼は、謀反の罪を着せられたくないという理由だけで、最初は帝位につくことを拒否しました。しかし、李景隆の主張を受け入れると、すぐに奸臣の処罰と新たな政策の実施に乗り出しました。

朱棣(シュテイ)の野心は、彼の北方の経営と改土帰流の計画、そして海外進出や宝船の建造などにも表れています。彼は、大明を強大な帝国にしたいと考えており、そのためにあらゆる手段を尽くすことを厭いません。

臣下たちの忠誠と葛藤

朱棣(シュテイ)の臣下たちは、彼に忠誠を誓いながらも、彼の冷酷さと野心に対して葛藤を抱いています。夏原吉は、朱棣(シュテイ)の才能を認めながらも、彼の戦争への執着や大規模な弾圧を懸念しています。鉄鉉は、興宗皇帝への忠誠心から、朱棣(シュテイ)に従うことを拒否し、命を落としました。

徐妙雲(ジョミョウウン)は、弟と夫を相次いで失い、朱棣(シュテイ)に対して強い憎しみを抱いています。しかし、朱棣(シュテイ)は彼女の息子を大切に扱うことを約束し、彼女を安心させようとします。

永楽の時代の始まり

朱棣(シュテイ)が帝位に就いたことで、永楽の時代が始まりました。この時代は、大明が最も繁栄した時代の一つとして知られています。朱棣(シュテイ)は、海外進出や文教の振興、諸藩の削減などを行い、大明の発展に大きく貢献しました。

しかし、朱棣(シュテイ)の冷酷さと野心は、多くの犠牲者を生み出すことにもなりました。彼の治世は、華やかな「永楽の盛世」と同時に、恐怖と弾圧の時代でもありました。

つづく